産業医と企業健診のマニアックすぎる歴史


産業医と企業健診や特殊健診の歴史なんて誰も興味ないだろうけど、仕事上調べる機会があったので、よっぽど暇なときか、よっぽど興味がないと見ないだろうが、どちらかの人は見てみてくださいww

「産業医」という言葉はわが国の学術関係者が1930年代から使用していたが、実はその前はというと、旧工場法の省令が規定した「工場医」から、労働基準法の省令が規定した「医師である衛生管理者」を経て, 労働安全衛生法が初めて規定したものである。

産業医の歴史は意外と古い

江戸末期には、すでに工場に雇われていた診療医の記録がある。安政4年(1857年)、盛岡藩が釜石で操業を始めた製鉄所に地元の医師が雇われて職工を診療していた。

明治から昭和初期は結核などの感染症予防のための公衆衛生

明治維新を経て、明治初期には、欧州で急速な発展を遂げていた衛生学がわが国に伝わった。その頃は、交通の発達に伴って大流行するようになった赤痢、 コレラ、結核等の感染症対策、長時間労働、寄宿舎の不衛生な生活環境、職工の栄養状態等の改善対策に取り組むようになった。

明治15年(1882年)になると、政府としての規制づくりも始まり、わが国における産業革命の進行に伴って、職場や作業が原因となって発生する労働者の疾病
を予防する体制の必要性が徐々に認識され始めた。

工場法と工場医の制定

日清・日露戦争の時代には、わが国の工業がめざましい発展を遂げたが、それにしたがって職工の労働は苛酷なものとなり、職工を保護するための取締りが必要という機運が生じた。そこで、明治44年(1911年)、その内容を受けて「工場法」が公布されたが、産業界の反対に直面して施行されなかった。

しかし、結核に罹患して帰郷した女工を追跡調査した結果、その死亡率が異常に高いことを明らかにし、これが富国強兵の政策を妨げる要因になることを報告したことから、大正5年(1916年)8月になってようやく施行された。

昭和13年(1938年)、枢密院に名称の変更を指示され、「国民の体力向上」や「国民福祉の増進」等を目的として厚生省が設置され、「工場危害予防及衛生規則」が改正され、 常時500人以上を使用する工場の工場主(事業主)に工場医を選任させる義務を課した。

昭和15年(1940年)10月には、工場医の選任義務がある事業場の規模が500人から100人に改正され、衛生上有害な業務に従事する職工の健康診断が年2回に改正された。

太平洋戦争が終わると、その直後から本格的な労働者保護法制を検討する動きが始まり、その中で産業医に関する議論も始まった。

業医と労働安全衛生法の歴史より

労働基準法と産業医の制定

昭和20年(1945年)10月、連合軍総司令部(GHQ)の指示により、昭和22年(1947年)4月、工場法が廃止されて労働基準法が公布され、その第5章に安全及び衛生に関する14の条文がまとめられた。法律の本文で「安全管理者」と「衛生管理者」を規定した。ここで、後の産業医は衛生管理者の一部として位置づけられた

労働安全衛生法と企業健診

労働者の安全と健康を確保するための安全衛生対策に関しては、従前は労働基準法の中で定められていたものの、昭和30~40年代に入ると、急激に変化する産業社会の実態に災害防止対策が即応できないこと等から、「労働基準法」及び「労働災害防止団体に関する法律」の関連部分に新事項を加え、安全衛生に関する法制の充実・強化を図るため、1972(昭和47)年に労働安全衛生法が制定された。


労働基準法

  • 労働条件の最低基準を定めたもの

労働安全衛生法

  • 労働者の安全衛生に関する最低基準を示す
  • 業務内容の変化に対応した健康障害防止対策
  • より快適な職場環境の形成

これにより、一定規模以上の事業場に安全管理者等を指揮する総括安全衛生管理者の選任が義務づけられ、衛生委員会の設置が法律上の制度となるなど安全衛生管理体制が整備された。また、医師である衛生管理者を産業医と定め、労働者の健康管理などに当たるとともに、事業者や総括安全衛生管理者に対し指導助言等を行う専門家として活動することとされた。

公衆衛生環境の改善や各種対策によって結核による死者数は大幅に改善されましたが、その次に日本人の死因の上位にあがってきたのが、脳血管疾患、がん(悪性新生物)、心疾患などです。

これらの病気は、「40~60歳くらいの働き盛りに多い疾病」であることから、厚生省が昭和30年代に、行政用語として「成人病」と呼ぶようになりました。

しかし、その後、これらの病気は、40〜60代に突然発症するのではなく、若い頃からの食生活や運動、喫煙、飲酒、ストレスなどの生活習慣を積み重ねた結果、発症することが多いことが明らかになり、「生活習慣病」と呼ばれるようになった。

1980年代以降、高年齢労働者の増加や技術革新による作業態様の急激な変化等を背景とした労働者のストレス増加に伴う心の健康対策が課題となった。

労働者の職場における安全と健康を確保するためには、これまでの単に健康障害を防止するという観点から、更に進んで心身両面にわたる積極的な健康の保持増進を目指し、充実する必要があった。

そこで、1988(昭和63)年に労働安全衛生法を改正し、事業者は、労働者の健康保持増進を図るため必要な措置を継続的かつ計画的に講ずるよう努めなければならないと定めた。

また、同法に基づき「事業場における労働者の健康保持増進のための指針」を策定し、労働者の心と体の健康づくり(トータル・ヘルスプロモーション・プラン)を推進することとなった。

具体的には、産業医が中心となって個々の労働者の「健康測定」を行い、その結果に応じて、それぞれの専門分野における十分な知識・技能を有するスタッフが「運動指導」、「メンタルヘルスケア」、「栄養指導」、「保健指導」を実施することにより、心身両面から労働者の健康の保持増進を図ることとした。また、これらの措置は、中長期的視点に立って、継続的かつ計画的に行われる必要がある。

このため事業者は、健康保持増進計画を策定し、実施内容を定期的に評価・反映させ、一層の充実を図るよう努めることとされた。

衛生上有害な業務

戦後の復興期には,法令が規定する衛生管理の対象範囲を明確にするために衛生上有害な職場や作業を定義しようとしたが、恕限度が持つ意味が職場の衛生基準なのか労働者の曝露限界なのかの概念が整理できず,その測定手法も確立できず,衛生管理者の職務で恕限度を活用する体制は構築されなかった。

その後,粉じんや鉛等を取り扱う業務を規制する基準や時間外労働を規制する基準は,濃度に関係なく作業を列挙する方式(作業列挙方式)に改められ,特定化学物質は作業に関係なく物質を列挙する方式(化学物質列挙方式)に改められ,労働衛生の専門職でなくても活用できる方法に変更され、その後、作業環境測定士がこれを活用する体制も構築された。

しかし、当時の恕限度に準じた基準が、現行法令でも,専属産業医を選任すべき事業場や特定業務従事者の健康診断を実施する対象者の基準として使用され続けており、現在では、作業環境測定の技術と科学的な知見が発展したが、衛生管理で利用される基準とその活用方法に関する規定は複雑化しており、法令上の体系的な整理がなされていない。

業医と労働安全衛生法の歴史より

じん肺対策

戦後最初に課題となった職業性疾病は、 けい肺であった。

昭和30年(1955年)には、3年を超える長期の療養に補償を給付するためにけい肺等特別保護法(昭和33年(1958年)からはけい肺等臨時措置法が継承)が公布され、地方けい肺診査医(現,地方じん肺診査医)やけい肺健康診断(現、じん肺健康診断)の制度が始まった。

昭和35年(1960年)からはけい肺だけでなく石綿肺やアルミニウム肺等の鉱物性粉じんの吸入によるじん肺も対象とするじん肺法が公布された。

特殊健康診断

高度経済成長期を迎えると、多彩な化学物質の使用や技術革新の進展などにより職場の環境や作業が大きく変化した。これに対応した衛生管理の体制づくりをめざして、有害要因ごとの法令や通達が示された。

最初に、 昭和26年(1951年)にGHQがわが国で石油精製事業を再開する条件として制定するよう指示した四エチル鉛危害防止規則(現、四アルキル鉛中毒予防規則)が公布された。

昭和31年(1956年)には主要な23業務について「特殊健康診断指導指針」(基発第308号、昭和31年)が有害要因ごとに特別な項目を検査する仕組みを示し、昭和38年(1963年)には「健康診断結果に基づく健康管理指針」(基発第939号、 昭和38年)がその事後措置(健康管理区分表等)の仕組みを示し、特殊健康診断の体系が構築された。

昭和34年(1959年)に電離放射線障害防止規則,昭和35年(1960年)に有機溶剤中毒予防規則、昭和36年(1961年)に高気圧障害防止規則(現、高気圧作業安全衛生規則)、昭和42年(1967年)に鉛中毒予防規則が制定され、作業列挙方式による規制を規定した。

さらに、水銀、マンガン、クロム等を規制する重金属障害予防規則の制定も検討されたが、これらを取り扱う作業の実態を把握することが難しくなり、結局、 昭和46年(1971年)に多くの化学物質を物質ごと(化学物質列挙方式)の規制としてまとめた特定化学物質等障害予防規則(現、特定化学物質障害予防規則)が制定された。

多くの有害要因に関して、有害要因ごとの通達や特別則と呼ばれる省令によって作業環境の測定、局所排気装置の設置、労働衛生保護具の使用、特殊健康診断の実施が規定された。

まとめ

産業医の歴史を労働衛生法令の発展とともに振り返ると、労働者の健康を確保するための政策は

  • 職場や作業の衛生を対象としたもの
  • 労働者の健康を対象としたもの

この大きく2つの側面から検討されながら構築されてきたことがわかる。

工場法はこの両者を区別せずに医師の職務と考えていたが、労働基準法は衛生管理者の中を医師と非医師に分けて両者の役割分担を図るようになり、労働安全衛生法は産業医と衛生管理者の立場と職務を明確に区別した。

ただし、「(労働)衛生管理」と「健康管理」という言葉は必ずしも明確に区別されず、両者が同義に扱われる用法が一部に残ったまま「労働衛生管理の一つに健康管理がある」という概念が広がったのでわかりずらい。

そして、労働衛生の3管理については、 法令の体系と相互の関係が理解しにくくなっている。作業環境管理では作業環境測定の結果を行政に報告する規定がなく、実施率や有所見率の統計が存在しないし、作業管理では潜水時間等の特殊なものを除けば測定や評価の方法についての法令上の規定がない。

健康管理を含めた3管理で、測定、評価、 改善、 記録、 報告といった方策を体系化して、これらの結果を相互に活用する方策を構築することを期待したい。

近年、暑熱、騒音、粉じん、重量物、放射線等の従来から存在する課題に加えて新規化学物質、新興感染症、心理的ストレス等の新たな健康リスクが次々と登場している。これらを現場で評価する技術は徐々に進化しているが、新たな課題ごとに新たな法令や通達が追加されて複雑化している一方で長年改正されていない行政文書も多い。

日本の場合、労働安全衛生法という法律によって、健康診断の受診が義務付けられていますが、欧米にはこうした制度はなく、世界的にみても非常に珍しい制度と言われています。

多くの先人達の努力で100年以上をかけて発展してきた労働衛生の政策を体系的に整理して、衛生管理と健康管理の均衡を図りながら推進するためには産業医だけでなく、企業側が理解しやすく、現状に即したものにしていくことを期待したい。

産業医科大学雑誌 第35巻 特集号 『産業医と労働安全衛生法四十年』: 1-26(2013)産業医と労働安全衛生法の歴史より

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